ミャンマー政権の近況
引用:ミャンマー
ミャンマーが最近、ニュースで取り上げられてるけど、
何があったの?
軍隊が政権を奪ったんだよ。
それって何がまずいの?
言うことを聞かないやつには武力行使!
みたいな考えになるんだよ。
それはほぼ独裁じゃないか?!
その通り!もともと、ミャンマーは独裁政権で、
民主化の動きはほんの最近のことなんだ。
確か、民主化のリーダーが「アウンサンスーチー」
だったよね?
そうそう。クーデター(軍隊が政府に反抗すること)が
起こる前はその人が国の代表だったんだよ。
ミャンマークーデターとは?
引用:ミャンマー
2月1日にミャンマーで起こったクーデターのこと。
軍が国家権力を握り、政権トップのアウンサンスーチー氏を拘束。
これに対し、国民は非暴力のデモを起こし、軍政を非難している。
また、ミャンマー国軍による市民の無差別大虐殺が起こっており、欧米は強く非難をしている。
ミャンマーの歴史
初期~第二次世界大戦
引用:ビルマ
かつてはビルマ(ミャンマー)と呼ばれる地域。
王朝が誕生しては、滅びるという不安定な状況。
1800年代 コンバウン朝ビルマは当時、イギリス領であったインドとイギリスと戦争
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敗れたビルマはイギリスの植民地へ。
1900年代 第二次世界大戦でビルマの独立運動家であるアウンサン(スーチー氏の父)はこれをチャンスと見て、日本軍と協力して、イギリス軍を追い払うことに成功。
→日本軍が占領する中で、念願の独立にこぎつける。(ビルマ国建国)
しかし、日本軍の強い影響下にあるビルマ国は真の独立ではないとして、日本がイギリスとの戦いに大敗した後は、アウンサンらの「ビルマ国民義勇軍」は日本を見限り、イギリスを含む連合国と協力し、日本軍とビルマ国政府を打倒。
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再び、イギリスの支配下へ
第二次世界大戦後~1962年
引用:ミャンマー
1948年 イギリスから独立
→ビルマ連邦建国
しかし、独立後も各地で内戦が起き続ける状況へ。
それを鎮圧していった軍が次第に力を持つように・・・
1962年 軍の最高権力者ネウィン将軍により、クーデターが起こる。
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軍事政権へ(20年以上)
ネウィン政権~初の民主化運動
引用:ミャンマー
ネウィン政権下は鎖国的で社会主義を原理とし、経済政策はうまくいかなかった。
一方で、タイやマレーシアなど他の東南アジア諸国が急速に発展。
ビルマはとうとう、アフリカと同じ「最貧国」の認定を受ける。
これに伴い、次第に民主化を求める声が高まる。
アウンサンスーチー登場~新たな軍事政権
引用:スーチー氏
民主化の声が高まった後、建国の父と呼ばれる
アウンサン将軍の娘のアウンサンスーチー氏が民主化運動の象徴的な存在へ。
民主化運動により、ネウィン政権を退かせた。
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しかし、新たな軍政により、スーチー氏を長期にわたり、自宅軟禁状態に・・・
(この時に、ビルマ連邦→ミャンマーとなった)
人権を無視した対応に、国際社会から強い非難を受ける。
民主化の本格化
引用:民主化
1991年 スーチー氏がノーベル平和賞を受賞
政権は弾圧による人権侵害などを批判され、欧米諸国から経済制裁を受ける。
社会が発展しないことへの不満により、軍政側も民主化へ向けて、少しずつ動く。
2008年 新憲法制定
2011年 民主制スタート
→スーチー氏らの解放で、欧米からの経済制裁が解除
経済制裁解除や民主化により、海外企業の進出が活発になるなど、
ミャンマーは
「アジア最後のフロンティア」
と呼ばれる。
2015年 スーチー氏率いる「国民民主連盟」が総選挙で圧勝し、本格的な民制が開始
クーデターの原因
引用:軍
クーデターの原因は主に2つあると考えられています。
軍の政治参加の継続
ミャンマーの憲法では
・国会議員の4分の1は国軍から
・憲法改正は4分の3以上の賛成
と明記されており、
軍は軍政が廃止されても、一定の影響力を保持していた。
多民族国家
ミャンマーには細かく分けると、100以上の民族が暮らしている。
民主政権では、対応できない問題が多くあった。
軍の主張
「11月に行われた総選挙で不正があった。」
と、主張。
だから、選挙で勝利したスーチー氏は逮捕、民主化もなし。
各国の対応
・ヨーロッパ諸国 軍政を強く非難(経済制裁へ)
・アメリカ 強く非難(経済制裁へ)
・中国 特になし
・日本 特になし