ロシアのプーチン大統領
2022年2月にウクライナ侵攻を表明したロシアのプーチン大統領。
なぜ、彼がウクライナへ戦争を起こしたのか?
そこまでNATO加盟を恐れていたのか?
その心中を理解するには彼の今までの歩みを知る必要があります。

プーチン大統領について
本名はウラジミール・ウラジミーロヴィチ・プーチン。
1952年10月7日生まれの69歳(2022/3/8現在)。
→独裁者は69歳で亡くなるというジンクスがある(都市伝説)
ロシア(旧ソ連)のレニングラードで生まれ、ロシアの政治家として、第4代ロシア連邦大統領に就任。
幼少期
2人の兄がいましたが、戦争で両方亡くなってしまいます。
幼少時代は貧困で、家族で共同アパートに住んでいたそうです。
学校では頑固で勤勉な学生という印象。
記憶力も頭の回転も良く、成績がかなり良かった。
格闘技に興味を持ち、サンボと柔道を熱心に習い始める。
自身が小柄であるという理由から柔道に軸を置く。
青年期
小説や映画からロシアのスパイに強いあこがれを持つようになる。
中学3年生の頃にはKGB(ソ連国家保安委員会)の支部へ訪問し、どうすればKGBになれるのか職員に質問する。
KGBはアメリカでいうところのCIA
この時に職員から
・KGBは自ら志願するものは採用しない。
・法学部だと有利
・格闘技も有利
と聞かされます。
大学時代
サンクトペテルブルク大学法学部に進学。
大学4年を優秀な成績で収めたプーチンはKGBからリクルートを受けて、念願だったKGBへの就職をします。
KGB職員であるためにはソビエト連邦共産党への入党が条件だったため、このときに共産党員になっています。
KGB職員時代
1985年には東ドイツのドレスデンへ派遣されており、1990年まで滞在。
まだまだ新米のプーチンはスパイらしいことは任されず、
ひたすら事務作業だったようです。
しかし、ベルリンの壁崩壊をきっかけに事態は急変します。
東西ドイツが統一されたことにより、KGB支部はCIAに家宅捜査されることになったのです。
その前に、プーチンは重要書類を燃やしたそうです。
政界への進出
ドイツ統一後、ロシアに戻り、母校のレーニングラード大学の学長補佐官として勤務することになりました。
その後、レーニングラード市ソビエト議長だったサプチャークの国際関係担当顧問になりました。
1991年6月にサプチャークが市長に当選すると、プーチンは対外関係委員会議長に就任しています。
1996年にサプチャークがサンクトペテルブルク市長選挙でウラジミール・ヤコブレクに敗れて退陣すると、プーチンも第一副市長を辞職しています。その後は、ロシア大統領府総務局長のパーヴェル・ボロジンによる抜擢で、ロシア大統領府総務局次長としてモスクワに異動しています。
1998年にはKGBの後身であるロシア連邦保安庁の長官に就任しています。
エリツィン大統領がエフゲニー・プリマコフによるクーデーターで追い落とされかけたのを救う。
→これにより、エリツィン大統領の信頼を得る。
1999年8月9日に、エリツィン大統領から第一副首相に任命されています。そして、エリツィン大統領はプーチンを自身の後継者にすることを表明しており、8月16日にプーチンは首相に任命されています。
1999年12月31日にエリツィン大統領が健康上の理由で引退を宣言し、エリツィン大統領によってプーチンは大統領代行に指名されました。
2000年に大統領選挙を行い正式に大統領になった。
その後、一時的に大統領を引退したが、再び立候補し、大統領に。
憲法を改正し、大統領の再選を延長した。